2011年12月18日日曜日

第4回研究会のお知らせ

一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
文化政策研究会 セミナーシリーズ
2011年度テーマ:文化政策の前提を問う

4回「文化政策の現状を考える1」
ゲストスピーカー:平田オリザ氏(劇作家、大阪大学教授)「ニッポンに文化政策なし」

日時:1228日(水)17:3019:30
場所:一橋大学国立キャンパス(東キャンパス)マーキュリータワー43406

4回研究会では、劇作家、元内閣参与の平田オリザさんをお招きし、これまで文化政策の現場に携わってきた演劇人としての立場からお話を伺い、今後の日本の文化政策に必要な戦略について議論を深めたい。
また、平田さんが『芸術立国論』等において展開してきた、演劇をコミュニケーションツールと解釈し教育現場に導入してゆこうとするアプローチの意義や展望についても議論したい。


一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
プロジェクト・ディレクター
青野智子
http://culturalpolicy-sg.blogspot.com/



*開場準備の関係上、事前申し込みが必要です。*
参加申し込みは、下記のメールアドレスまで。

culturalpolicysgatgmail.com((at)を@に変えてお送り下さい)


今後の予定:
5回地域政策研究会 1221日(水)16:15- 清水康之氏(ライフリンク代表)
4回文化政策研究会 1228日(水)17:30- 平田オリザ氏(劇作家、大阪大学教授)
6回地域政策研究会 118日(水)16:30- 秋山正子氏(訪問看護師、白十字訪問看護ステーション代表)
5回文化政策研究会 125日(水)16:30- 春日直樹氏(人類学、一橋大学教授)
詳細は追ってHP上・メールにてお知らせ致します。
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2011年12月5日月曜日

日本文化政策学会企画フォーラムのお知らせ


来る1216-18日に早稲田大学で開催される日本文化政策学会第5回年次研究大会にて、文化政策研究会が主催するフォーラムが開催されます。フォーラムのみの参加については、参加費無料ですので、ご参加頂ければ幸いです。

また、ご関心に応じて、期間中開催されます日本文化政策学会のラウンドテーブル、分科会、シンポジウム、ポスターセッション等にもご参加頂ければ幸いです。(会員参加費:1,000 円、非学会員:3,000 円、非学会員学部学生:1,000 詳細は日本文化政策学会HP



<企画フォーラム A

文化政策はいかにして可能であるか  〜文化政策学の根拠を問うことからの展望


20111218日(日)13501600
早稲田大学 国際会議場(18号館)3F(会場は当日案内します)


1報告 神林龍(一橋大学経済研究所准教授)
2報告 松宮秀治(元立命館大学文学部教授)
3報告 青野智子(諏訪東京理科大学准教授、一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター・プロジェクトディレクター)
司会 猪飼周平(一橋大学大学院社会学研究科准教授)


 20114月より、一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センターでは、「文化政策研究会」を開催し、文化政策学の理論的基礎を確立するための意見交換の場を提供している。そこにおける主要な問題意識は、文化政策とは何か、文化政策とはいかにして可能であるか、といった政策学の基礎に関わる問いが、従来不足していたのではないかということである。もっとも、現在の文化やそれに対する行政のあり方を前提として、折々に直面する政策的課題について議論するということが、文化政策のなすべきことの全てであるならば、基礎論的な議論をスキップすることに、何の問題もないだろう。だが、文化や文化行政の基盤が固まっておらず、先行きが不透明な現状にあっては、そのような文化政策は、大河に押し流される小舟のような存在になってしまう危険があるといえよう。「文化政策研究会」における上記のような認識に基づき、本フォーラムにおいては、文化政策学の基盤を確立する理論構築への第一歩として、従来、文化政策の主要な根拠とみなされてきた議論を再検討したい。


 第1報告(神林龍)では、従来、文化政策の根拠として受け入れられてきた、ボウモル&ボウエン理論の再検討を行う。ボウモル&ボウエンのPerforming Arts: The Economic Dilemma1966年)は、アメリカにおける舞台芸術団体への公的支援制度の確立に貢献したとされ、現在、内外の文化政策学およびアートマネジメント研究において古典的地位を確立している。しかしながら、その「コスト病」に関する議論については、その理論前提や適用範囲についての理解が不正確なまま、また、実態が理論を支持しているのかに関する検証が不十分なまま、いわば文化芸術への公的支援の理論的根拠として、一人歩きしてきた面がある。第1報告では、この点について論点を整理するとともに、「コスト病」の文化政策の根拠に対する含意を再検討する。


 第2報告(松宮秀治)では、文化政策の根拠のもう一つの柱とみなされてきた「芸術」について再検討を行う。近代ヨーロッパにおける「芸術」とは、単に美的なるものの探求の到達点としてあるのではない。それは、美に関する特権的な権威とそれを再生産する諸制度を携えた社会装置の総称でもある。そのような「芸術」は、ヨーロッパ近代を通じての歴史的文脈の中で発達してきたものであり、また今日においては、衰退しつつあるものでもある。文化政策において「芸術」を取り扱う際にも、このような認識は、前提として踏まえられていなければならない。だが、日本の文化政策の文脈においては、一方では、「芸術」はよきものであるという一種の絶対的な概念として無批判に認められ、また他方では、「文化芸術」といった曖昧な用語法によって、「芸術」の意味を正面から捉えることを回避される傾向にあったようにみえる。文化政策はいかに「芸術」を消化すべきか。第2報告では、この問題を正面から捉えてゆくことを目指して、「芸術」を歴史的観点から振り返ることとする。


 第3報告(青野智子)では、公共政策としての文化政策が成立する条件について論ずる。文化政策の公共性については、これまでも政治哲学や経済学などの立場から論じられてきた。これらはいずれも規範的観点からの文化政策の公共性論であるといえる。これに対して、本報告では、従来の文脈とは異なる視角、すなわち、文化的現象の公共性が社会に認められる条件を実証的に検討するという立場から、この問題を扱う。本報告では、特に演劇に関する興行を取り上げ、アメリカにおいては、演劇興行が、寄付によって支えられる傾向が強い(公共性が社会的に承認されていることを意味する)のに対し、日本ではそのような形での支援が一般に成立しにくい(公共性の社会的承認が弱い)点に着目し、日米における公共性の社会的承認に関する社会構造の差異を論ずることとする。


 このように本フォーラムは、文化政策の学問としての確立を目指すものであるが、アカデミズム内部の議論によってのみ、文化政策学の確立がなし得るものではないことは言うまでもない。それは、研究者、実践家、行政家等を含む多様な人々の積極的な議論の上に構築されるべきものである。本フォーラムをそのような議論の場とすべく、フロアとともに議論する時間をできる限り割きたい。そして、本フォーラムでの議論を通じて、文化政策の基盤に関する問題意識の共有を実現できればと思う。


参考文献

青野智子(2009)「『芸術』でもなく『娯楽』でもなく」演劇映像学2008』第一集
ウィリアム・J・ボウモル&ウィリアム・G・ボウエン(1994)『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』芸団協出版部
松宮秀治(2003)『ミュージアムの思想』白水社
松宮秀治(2008)『芸術崇拝の思想』白水社

2011年11月18日金曜日

第3回研究会のおしらせ

一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
文化政策研究会 セミナーシリーズ
2011年度テーマ:文化政策の前提を問う


第3回「多文化主義と文化政策」
ゲストスピーカー:石山文彦氏(中央大学法学部教授)


日時:11月30日(水)17:30~19:30
場所:一橋大学国立キャンパス(東キャンパス)マーキュリータワー4階3406室

第3回研究会では、石山文彦さんをお招きし、法哲学の観点から文化政策の可能性について考えたい。石山さんには多文化主義と文化政策の比較を通じて、両者のよって立つ基盤についての論考がある。多文化主義によれば、文化とは、個人の自律を可能にし、個人のアイデンティティの重要な構成要素となるものであり、それを政策的に保護すること(=一種の文化政策)が積極的に推奨される。このような多文化主義の「文化政策」が、文化政策学者が通常イメージする文化政策といかなる交点を結ぶのであろうか。研究会ではこの点について、突っ込んだ議論をできればと思う。また、社会・文化・経済への政策的介入を基本的に忌避するリバタリアニズムを文化政策がいかに乗り越えることが可能であるかについても、理解を深めてゆきたい。

一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
プロジェクト・ディレクター
青野智子
http://culturalpolicy-sg.blogspot.com/

参加申し込みは、下記のメールアドレスまで。
culturalpolicysg(at)gmail.com((at)を@に変えてお送り下さい)

2011年6月27日月曜日

第2回研究会「近代を拓いたいくつかの概念―芸術・文化・歴史」概要

622日(水)に第2回研究会「近代を拓いたいくつかの概念―芸術・文化・歴史」(スピーカー:松宮秀治氏)を開催しました。松宮氏には、現在執筆中の「歴史」「文化」に関する著書の構想に触れる形で、主として西欧における「歴史」概念の成立過程についてお話し頂きました。概念史の重要性に始まり、カントの進歩思想、聖書の原典批判を経て、普遍史の誕生の中に、伝統社会からの脱却としての近代概念の誕生及び近代的歴史観の生成過程を見る、というのがメインの主題でしたが、主題以外にも、名前に対する東西の感覚の相違、一国史観の陥穽、学問の専門性のあり方、そして、鴨長明の奥さんの日記、エカテリーナ女王の楽しみに読んでいた雑誌、ヘーゲル『歴史哲学講義』の翻訳者等々…と話題は多岐にわたりました。続くディスカッションでは、芸術のどの部分が西欧近代の構築物なのか、芸術の自律性とは何か、芸術の自己破壊は何によるものであるのか、また、「芸術」の座の空位となった現代社会において何がそこを占めるべきなのか(或は空位のままでよいのか)といったトピカルな問題にも及び、延長しての二時間半となりました。ライブの松宮氏は著書に劣らぬ博覧強記ぶりを発揮され、留まることを知らぬ知識の奔流にのみ込まれるままに、司会進行におきまして至らぬ点が多くありましたこと、ご容赦頂ければ幸いです。松宮氏は自著で、日本には「ドン・キホーテ」型の人物がいないと述べていましたが(松宮2008, 36)、今回は「ドン・キホーテ」のように「西欧近代」に自ら立ち向かい格闘する氏の姿に接したように思います。

2011年6月7日火曜日

第2回研究会のお知らせ


一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
文化政策研究会 セミナーシリーズ
2011
年度テーマ:文化政策の前提を問う

2回「近代を拓いたいくつかの概念芸術・文化・歴史」
ゲストスピーカー:松宮秀治氏(『芸術崇拝の思想』『ミュージアムの思想』白水社)

日時:622日(水)17:3019:30
場所:一橋大学国立キャンパス(東キャンパス)マーキュリータワー43406

近代ヨーロッパにおける「芸術」とは、単に美的なるものの探求の到達点としてあるのではない。それは、美に関する特権的な権威とそれを再生産する諸制度を携えた社会装置の総称でもある。そのような「芸術」は、ヨーロッパ近代を通じての歴史的文脈の中で発達してきたものであり、また今日においては、衰退しつつあるものである。

上記の認識は、文化政策において「芸術」を取り扱う際にも、本来、前提とされるべきものである。だが日本の文化政策の文脈においては、そのようなヨーロッパにおける「芸術」のもつ社会性・歴史性は捨象されたまま、「芸術」はよきものであるという一種の絶対的な概念として、無前提に認められ(或は黙認され)てきたきらいがある。

第2回文化政策研究会では、松宮秀治さんを迎えて、近代ヨーロッパに成立し、そして現在解体しつつある「芸術」概念の、社会性・歴史性がいかなるものであったかを把握する作業をおこなう。その作業を通じて、従来の日本の文化政策における「芸術」概念の取り扱いに対して省察を加えるとともに、現在進行しつつある、「芸術」の解体過程が、ヨーロッパおよび日本の文化政策にとって、それぞれどのような意義を有するものであるのかを検証したい。

一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
プロジェクト・ディレクター
青野智子

参加申し込みは、下記のメールアドレスまで。
culturalpolicysg
atgmail.com((at)を@に変えてお送り下さい)

2011年5月24日火曜日

文化政策学と学問的中立性~第1回研究会「ボウモル&ボウエン理論の射程を考える」を踏まえて

先月の文化政策研究会においては、ボウモルのコスト病の実証的基盤の不確かさが明瞭になった点で、大変成果があった。Baumol&Bowen(1966)のデータは明らかにおかしいと思っていても、いかんせん、文系人間の自分は「数字」に自信がない。今回、第一線の労働経済学者による分析に接することができたことで、院生時代以来の宿題が漸く解決した思いである。

先日の研究会でも指摘され、議論したことだが、そなってくると、問われるべきは、何故、そのよに問題の多い理論であるにもかかわらず、ボモルのコスト病の理論は、当時のアメリカ社会に受け入れられ、特に、リージョナルシアターの現場で働く人達に熱烈に受容されたのか、そして、多くの文化政策研究者は、コスト病の存在を疑わず前提としてきているのか、といことになる。

第1の論点については、アメリカでのB&B受容の前提として、「芸術は良きもので広めなくてはならない」とい、かなり楽観的な芸術観が、1960年代前半のアメリカを席巻していたといことがある。また、そのよな時代の空気が、アメリカにおいて、文化芸術への公的助成をおこな全米芸術基金(NEA)の設立に寄与した、といのも、歴史的事実であることは間違いない。日本でも「モノの豊かさからココロの豊かさへ」とい標語があったが、それに近い感覚が当時のアメリカにも存在していたと考えられる。

しかしそのよな熱狂は、アメリカにおいてはその後、急速に終息に向か1970年代以降、NEAの存在意義は概ね縮小を意義なくされ、そして現在に至る。従って、アメリカにおいて、ボモルのコスト病が公的助成の根拠とみなされていたのは、ごく短い期間の間のみである。むしろそれは、寄付のための説得的なレトリックとして、舞台芸術の現場において使用されてきた面が強い。

そこで第2の、どして演劇の現場でB&Bが熱烈に受容されたのか、とい論点となる訳だが、B&Bの論が、オーケストラでもオペラでもなく、出版当時、急速に発達しつつあったリージョナルシアター業界に、最も熱烈に受けいれられたことと、NEAの予算配分が当初、演劇ジャンルに大きく偏って手厚いものだったこととは、大いに関係がある。オケもオペラも(そして美術館も)当時は富裕層のパトロンの存在によって経営を成立させており、公的資金は不要なばかりか、政府の介入として危険視する向きがあった。当時、リージョナルシアターだけが、パトロン制度によらない不安定な財政基盤にあって、公的助成を切実に欲していた。そして、リージョナルシアターだけが、ブロードェイの商業演劇によって長年形成されてきた「演劇はもかるもの・採算がとれるものTheatre pays for itself」といイメージを払拭する、強力な論理を必要としていたのである(青野2009)。

実際、コスト病の論理は、助成や寄付を募るための説得的な論理としては、アメリカのリージョナルシアター業界において、非常に有効に機能した。今でもその論理は、リージョナルシアターのファンドレイジングなどの場面で、変奏されながら使われている。

考えると、アメリカのリージョナルシアターの演劇の現場で働く人達が、これまでボモルのコスト病の妥当性を問題視しなかったことは、決して責められる種類のことではないだろ。現場の演劇人にとっては、ボモルのコスト病が現実に存在しているか否かは問題ではなく、それが助成金や寄付金を獲得するのに使える便利な道具であるか否かが、当面の問題だからだ。それに加えて、コスト病の論理には、「舞台芸術は非常に手間のかかる手仕事中心の産業だ」といったよな、演劇人にとっては、非常に実感的に理解でき、共感できるステートメントが多分に含まれている。細かい数字はわからなくても、「プリンストン大学教授による科学的・実証的研究」といことで信じてしまったといことも考えられる。

なってくると、最後に残るのが第3の論点だが、どして文化政策の研究者たちは、ボモルのコスト病の存在をこれまで疑わなかったのだろか。ちゃんとした検証を怠ってきたことの弊害は、少なくとも、現在に至っては大きくなっているのではないか。仮にそれを「古典」とみなすのであれば、批判的検討を経るべきであるのもそだが、しかし話は、そいった学問的手続きの問題に留まらない。ボモルのコスト病の研究者による未検証とい問題は、文化政策とい研究分野が暗黙のちに前提としているバイアスをも、照らし出してくれているよに思われる。

即ち、文化政策の研究者が、ボモルのコスト病の妥当性をこれまであまり問題視してこなかったのは、アメリカのリージョナルシアターに携わる演劇人と同様に、文化政策の研究者の多くが、「芸術文化への公的助成を是とする」とい、暗黙の了解に、そもそも立ってきたからではないだろか。

譬えが悪いかもしれないが、昨今の例では、原発を推進することと原発の研究がイコールになってしまっている状況と、基本的に同じである。芸術文化への公的助成が悪い、といっているのではない。現場の窮状を考えれば、上で述べたよに、現場の実践家がどんな理由であっても助成が欲しいと思い、あらゆる手段を尽くしてそれを獲りにゆくといのは当然だろう。しかし、文化政策の研究者が、その現場の論理にのみ込まれて、知らぬ間に、公的助成を是とすることを無前提に認めたかのよな立場で研究を行ってきてはいないだろか。改めて、自戒したいところだ。

実践と深く結びついた学問である文化政策とい分野を研究する限り、この問題はついて回る問題であるのは確かであろ。実際自分も、現場の実情について深く知れば知るほど、個人的な勝手な思い入れも含め、客観的になり切れない部分があるのも確かである。加えて、現場でNPOやアート関係の業に携わっている人達は、私としても人間として共感するところが多い。応援したくなるという気持ちは、私の中にも常にある。

研究者はしかし、単なる「応援団」ではいけない。「応援団」の少なさが問題なのではない。一昔に比べたら「応援団」は格段と多くなっている。にも関わらず、問題が山積し事態は一向に改善していない、とい現状が問題なのではないだろか。研究者の立場のあり方についても、文化政策研究会では今後、議論を進めてゆきたいと考えている。

2011年5月2日月曜日

第1回研究会「ボウモル&ボウエン理論の射程を考える」概要

4月27日(水)に第1回研究会「ボウモル&ボウエン理論の射程を考える」(スピーカー:神林龍氏)を開催しました。神林氏による発表のハイライトは、舞台芸術分野におけるボウモルのコスト病は実証されてはいないというもので、これまでコスト病の存在を前提として公的支援の是非を立論してきた文化政策学の前提を大きく問うものとなりました。議論は、ボウモル&ボウエン理論が受容された当時の社会的背景、ボランティア・エコノミーの是非等にも及び、研究会後の懇親会と併せ、第1回目にふさわしい有意義な議論をもつことができました。

次回開催予定は6月22日です。

第1回研究会のお知らせ (終了しました)

橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
文化政策研究会 セミナーシリーズ
2011年度テーマ:文化政策の前提を問う

第1回「ボウモル&ボウエン理論の射程を考える」
ゲストスピーカー:神林龍氏(一橋大学経済研究所准教授、労働経済学)
日時:4月27日(水)17:30~19:30
場所:一橋大学国立キャンパス(東キャンパス)マーキュリータワー4階3406室

ボウモル&ボウエンの1966年の著書Performing Arts: The Economic Dilemmaは、アメリカにおける舞台芸術団体への公的支援制度の確立に貢献したとされ、現在、内外の文化政策学およびアートマネジメント研究において古典的地位を確立している。しかしながら、その理論の前提やその適用範囲についての理解が不正確なまま、彼らの理論が、いわば文化芸術への公的支援の理論的根拠として、一人歩きしてきた面がある。
現在、舞台芸術および文化芸術への公的支援の根拠が改めて問われる中、原点に立ち返る意味で、ボウモル&ボウエンの理論の前提と射程を再確認するとともに、その歴史的・現代的意義を検証する。

参加申し込みは、下記のメールアドレスまで。
一橋大学大学院社会学研究科市民社会研究教育センター
プロジェクト・ディレクター
青野智子
culturalpolicysg(at)gmail.com
((at)を@に変えてお送り下さい)

2011年5月1日日曜日

文化政策研究会を立ち上げました

2011年度のテーマは「文化政策の前提を問う」です。文化政策は、近年非常に注目を浴びている政策領域ですが、学問的にはとても整備が進んでいるとはいえない状況です。本研究会では、これまで文化政策学領域で暗黙にシェアされてきた前提を問うことで、当該研究分野の活性化を目指してゆきたいと考えております。月1回程度のぺースで開催予定です。皆様のご参加をお待ちしております。

一橋大学大学院市民社会研究教育センター
プロジェクト・ディレクター
青野智子

お問い合わせ先:culturalpolicysg(AT) gmail.com 
(AT)を@に変えて送信して下さい。

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趣旨:
文化政策が注目を浴びているという。1990年代以降の公的助成金制度の拡充、文化芸術振興基本法の成立の過程で、あるべき文化政策についての議論が高まり、大学においても、文化政策に関わる授業科目の開講、独立の文化政策関係学部・学科の設置がすすんできた。私たちは漠然と、文化に対する関心の高まりによって文化政策学の存在意義がますます重要となってくるであろうと考え、また現実世界も、そのような方向に動いているというのがコンセンサスになりつつある。

しかしながら、なぜ文化政策が有望な学問分野であるのか、なぜ文化に対する関心が高まりつつあるのかということになると、それらの問いに正面から答えようとする試みは、これまでほとんどなされてこなかった。そもそも実際のところ、なぜ文化政策が存在しているのか、その根拠ですら不明のまま、自明視されてきたといってよい。

このような状態は、学問的観点と実践的観点のいずれからも深刻な事態であるといえる。

第一に、学問的には、文化政策を成立させている前提を理解しないということは、学問分野としての文化政策学が、知的成果を蓄積してゆくための土台を有していないということを意味するからである。

第二に、実践的には、文化政策が一学問分野として確立していないということは、実際の政策実践において必要となる、正しい現状認識を得られないことを意味しているからである。

本セミナーは、文化政策の前提を問うことで、文化政策学を基礎づける理論と歴史的パースペクティブの構築を目指すものである。そのことは、文化政策学の確立という学問的文脈に貢献するとともに、文化政策の現在の見取り図や将来の方向性を指し示すという、実践的な要請にも応えるものとなるであろう。